「石の上にも三年」という言葉が美徳とされる中で、私はどうもその枠に収まりきれずにきました。
ボディーボード、スキー、ダンス、登山、ヨガ、マラソン、キックボクシング、ゴルフ。そして、思い立ったように出かける旅行。私のこれまでの歩みを振り返ると、驚くほど一貫性がありません。
世間一般ではそれを「飽き性」と呼ぶのかもしれません。けれど、いくつもの世界を渡り歩いてきた今、それは決してネガティブなことではないと感じています。多趣味であることは、自分という人間の解像度を上げるための、静かな投資のようなものだと思うのです。
「飽きる」とは、その世界の核(エッセンス)を吸収した証拠
新しいことを始めるときや、知らない土地へ行くときの、あの独特の感覚を今も覚えています。
- ボディーボードで初めて波に押された瞬間の高揚
- キックボクシングでミットを叩く乾いた音
- ゴルフの静かなグリーン上で、芝の目や距離に集中する緊張感
- 旅先で、言葉の通じない路地裏に迷い込んだときの心細さ
「飽きる」という現象は、単なる投げ出しではありません。その世界で自分が求めていた「何か」をちゃんと吸収し、自分の一部にできたという一つの区切りなのです。
プロを目指すわけではないのなら、すべてを一生続ける必要はないはずです。その時々に「心が動くポイント」をいくつ見つけられたか。広く浅く渡り歩くプロセスは、自分という人間を多角的に知るための、贅沢な対話の時間でもありました。けられたか。広く浅く渡り歩くことは、自分という人間を多角的に知るための、贅沢な自己対話のプロセスなのです。
「静」と「動」の経験が混ざり合い、視点を作る
一見、バラバラに見える趣味や旅行。けれど、それらは自分という器の中でいつの間にか溶け合い、一つの視点を作り上げています。
例えば、キックボクシングの「動」。限界まで自分を追い込み、身体を使い切る爽快感。 一方で、ヨガやゴルフの「静」。深い呼吸や、止まっているボールに対して心を整える作業。海、山、道、街。 相反するような経験を積み重ねることで、自分の中に「物事を測るものさし」がいくつも増えていきます。一つのことしか知らなかったときよりも、世界が少しだけ多層的に、立体的に見えるようになりました。
実体験だけが、確かな手触りとして残る
登山で感じた、嫌になるほどの足の重さと、その先に広がる無音の絶景。 旅行先でふと見つけた、名前も知らない料理の匂い。 スキーで斜面を切り裂く快感や、ゴルフのクラブを通して伝わる打球感。
こうした身体を通した経験は、誰かに教わった知識ではなく、自分だけの「手触り」として蓄積されます。 いくつもの趣味を通過してきた事実は、単なる思い出作りではありません。その手触りがあるからこそ、日々の些細な選択や判断において、自分なりの根拠を持てるようになるのだと感じています。
結論:好奇心のままに、未完成な自分を楽しむ
もし「自分は飽きっぽい」と立ち止まっている方がいるなら、その好奇心を止める必要はないとお伝えしたいです。人生という限られた時間の中で、どれだけ多くの世界に触れられるか。スキーヤーの私、旅人の私、ゴルフをする私。それらすべてが重なり合って、今の自分が構成されています。一貫性なんて、後から振り返れば勝手に見えてくるものです。今はただ、心の向くままに新しい扉を叩き、新しい土地を踏みしめたい。
「飽きる」ことを恐れずに、常に「未完成な自分」を更新し続けること。その好奇心が、結果として自分を最も面白い場所へと連れて行ってくれるはずですから。
